「脂質場」から生命現象を理解する
(Understanding of biological phenomena based on a molecular field theory of membrane lipids)

京都大学化学研究所
複合基盤化学研究系
超分子生物学研究領域
梅田 真郷

 生物は、その進化の過程で様々なタンパク質を生み出してきたが、脂質分子もタンパク質と同様にその化学構造の多様化を遂げて来ている。哺乳動物膜の主要成分であるグリセロリン脂質の生合成と分解の代謝パスウェイのみを想定した場合でも、脂質分子の構造変換パターンは10万種に上り、実際、生体膜を構築する脂質分子は3万種類以上にも及ぶことが最近の脂質メタボローム解析により明らかとなってきた。この脂質構造の多様化の意味は未だ定かではないが、タンパク質の構造と機能の多様化に伴って、その働く場である膜環境も多様性を獲得してきたことが脂質多様化の要因の一つである可能性が高い。また、最近の研究により、これら多様な脂質分子が膜中に均一に分布するのではなく、脂質二重層内外で活発にとんぼ返り運動(フリップ・フロップ)を繰り返し、また膜面上で離合集散することにより特定の機能ドメイン、いわゆる「脂質場」を形成することが明らかになりつつある。
 細胞膜は生物と環境とを結ぶインターフェースであり、そこでは細胞内・外からの莫大な量の情報が常時、受容・伝達されている。細胞膜をマイクロプロセッサに例えるならば、タンパク質はマイクロチップを構成する素子、分子間のネットワークが集積回路であり、脂質膜は回路素子を収めるきわめてソフトな基板となろうか。この生体膜マイクロプロセッサの際立った特徴は、細胞内・外の環境の変化に呼応してその作動回路を柔軟に変更することにより、多様な生命活動をコントロールすることを可能にしている点にある。我々は、膜脂質分子の離合集散により形成される特異な「脂質場」が機能タンパク質の集積する部位を特定し、細胞は膜脂質の分子運動を操ることによる「脂質場」の消長を介して分子の集積回路をコントロールし、多彩な情報処理を行っていると提唱している。本研究では、ゲノムと環境との相互作用を分子のネットワークとして理解する「環境ゲノミクス」研究の一環として、生体膜における脂質ドメイン形成とその役割、ならびに脂質分子運動を制御するタンパク質の同定とその機能解析、について研究を進めた。

1.細胞分裂における特異な脂質ドメインの形成と分子集積
 我々は、脂質分子の生体膜中での分布と動態を観察するツールとして、様々な脂質に特異的に結合するプローブ群の開発を行ってきた。これら脂質結合プローブを用いた観察から、細胞分裂終期の分裂溝表面において、リン脂質の一つであるホスファチジルエタノールアミン(PE)分子の局所的なフリップ・フロップ運動の活性化が起こり、通常は形質膜の内層に存在するPE分子が細胞外へと露出することを見出した。また、この細胞表面のPE分子をPE-結合プローブによりトラップすると、分裂溝膜直下の収縮環を形成するアクチン線維の再編が阻害され、細胞分裂が停止することが明らかとなった。これらの知見は、脂質二重層内外でのPE分子の局在の変化が、膜直下のアクチン細胞骨格再編を制御するシグナルとなっていることを示唆している。さらに、PE分子の局在の変化がいかなる機構で細胞骨格制御に関わるのか、分裂溝に集積する機能タンパク質に着目して解析を進めた結果、PE分子局在の変化が、低分子量Gタンパク質RhoAならびにPI(4,5)P2の生合成酵素であるPIP5キナーゼの膜への局在と活性化を介して、アクチン細胞骨格の再編を制御していることが明らかとなった。また、分裂溝と周辺の膜領域との間ではリン脂質の自由な往来が低下し、分裂溝においてはPEが外層に表出し、PI(4,5)P2が内層に豊富に局在する特異な膜ドメインが形成されていることが示された。この分裂溝における膜ドメインは、細胞質分裂に必要な分子装置の分裂溝への集積を制御するプラットフォームとして機能している可能性が高い。分裂溝におけるリン脂質分子の動きを制御する分子の同定とともに、分裂溝に形成される特異な「脂質場」の実体を明らかにすることが今後の課題である。

2.脂質フリップ・フロップを制御するタンパク質ROS3による細胞運動制御
 我々は、形質膜リン脂質の配向性に異常をきたした出芽酵母変異株の原因遺伝子の解析により、リン脂質フリップ・フロップを制御する新規の膜タンパク質Ros3p/Lem3p を同定している。この分子を欠損した酵母細胞では、形態やアクチン骨格に異常を生じ、また過剰発現すると異常な多出芽を引き起こすことなどから、リン脂質輸送とともに細胞の形態・極性形成においても機能している可能性が示唆されている。今回、哺乳動物に発現する相同タンパク質mROS3を単離し、その機能解析を進めた。その結果、mROS3はフリッパーゼ(アミノリン脂質トランスロケース)として知られるP型ATPaseと相互作用し、その局在の制御を介して形質膜におけるリン脂質のフリップ・フロップを制御していることが明らかになった。さらに、mROS3/P型ATPase複合体を介する細胞表面上でのリン脂質分子のフリップ・フロップ運動の亢進が、細胞膜のラッフリングや細胞運動の制御に重要な役割を果たしていることを見出した。細胞運動は、発生過程や免疫応答、ガンの浸潤・転移などさまざまな生理的過程に関与する重要な細胞活動の一つである。細胞が運動するときには、細胞骨格の調節、細胞と細胞外基質間との接着の調節、接着分子や膜成分を供給する細胞内小胞輸送の調節が必要となるが、一方で、細胞の動きを可能にする膜構造のダイナミックな変化も不可欠である。このため細胞運動時には、細胞を取り囲む形質膜と細胞内の細胞骨格や小胞輸送システムとの時間的・空間的な協調が重要であるが、このクロストークを実行する分子機構はほとんど不明であった。本研究で得られた知見は、細胞膜のダイナミズムを左右する脂質分子の動態が、細胞運動の制御に関与している可能性を初めて提示するものとなった。

研究業績
1. Kato U, Umeda M.: Prog. Lipid Res. in press.
2. Li Z, et al. Cell Metab. 3, 321-31, 2006.
3. Emoto, K., et al. J. Biol. Chem. 280, 37901-37907, 2005.